人生という「物語」の取扱説明書。

この記事がそこそこ読まれたみたいなので↓

何周遅れでもいい。1人の人間として、ただ自分の物語を生きること

人生という「物語」について、個人的に思うことをもう少し書いておきたいなと思います。

 

どんな人もそれぞれの物語を生きている、という前提

こちらのツイートは、冒頭で紹介した記事でも取り上げたもの。

 

どんな人にも、生きてきた分だけ物語が存在するし、これからも自分の物語を編みながら生きていく。これ自体は当たり前で、「前提」にすぎない話だと思っています。

スーパースターにならなくても、幸せに暮らすお姫様にならなくても、どん底を味わってから這い上がらなくてもいい。ドラマチックでなければいけないわけじゃなく、1日1日が積み重なってできた人生は、それ自体が物語です。

だから、物語のない人はいない。過去の先に今があって、その先に未来があって、何かしらの形で繋がっている。それは誰でも同じことです。

 

相手の物語を尊重するという優しさ

物語のない人はいない。だから、自分にも物語があるし、友達にも家族にも同僚にも、好きな人にも嫌いな人にも、それぞれの物語が存在します。

他人の物語を何らかの形で味わうことが、自分の人生に影響を与えることがあります。インタビューやドキュメンタリーに触発されたりアイデアをもらったりすることがあるかもしれない。別の人生に触れることで、「こんな生き方があるのか」「こんな可能性があるのか」と視野が開けるものです。

 

それと同時に、「相手には相手なりの物語があるのだ」ということを理解し、尊重できたら、世の中がもう少し優しくなるのではないか、とも思っています。

特に、自分がどうしても嫌いな人のことや、イラッとさせられる相手のこと。嫌なヤツだと思うのはとても簡単だし、避けられるならそれに越したことはないかもしれないけど、仕事などでどうしても接しないといけないケースもあるでしょう。

そんなときこそ、「相手にも物語がある」ということを思い出すようにしています。嫌なヤツにも何かしらの物語がある。それをたどっていったら、嫌な行動の理由があるかもしれない。そうしないとやっていられない事情があるのかもしれない。

その事情が家庭内のストレスなのか、子供の頃から引きずっているトラウマなのか、単なる癖みたいなものなのか、他人のことだからもちろん正解なんてわかりません。でも、そう思ったほうが穏やかに流せる気がするから勝手に相手の物語を想像する、それだけのこと。

 

このあたりをまったく赤の他人に関して実践してみたのが、昨年作った「人間観察日記」で。

誰の背後にもあるはずの物語や感情を「妄想」することで、少しでも他人に優しくなれる道を探したい。そして、いろいろな人がいるという当たり前のことを受け入れ、自分にも優しくなってほしい…というのが狙いのひとつでした。

目の前の行動や表向きだけではわからない何かが、その人の中に存在しているのかもしれない…というちょっとした想像力を持つ余地を持っておきたいなと思うのです。

自分にとってはものすっごい嫌な人であっても、実は根っこでとても優しい部分を持っていることもあるだろうし、突き抜けて明るく眩しい人が、心の中でごうごう泣いていることだってあるかもしれないし。

 

物語にこだわらないという優しさ

誰にでも物語はたしかにある。冒頭にも書きましたが、1日1日が積み重なってできた人生は、それ自体が物語です。

でもなんというか、物語って別にドラマチックでなくてもいいし、きれいに一貫していなくてもいいし、必ずしもきれいにつながったものでなくても良いと思うんですね。

 

多くの人がイメージする物語って「線」じゃないかと思います。「頑張ったから1番になれた」「つらい経験を活かして成功した」みたいな、何らかの因果関係や連続性がはっきり見えるイメージ。物事には必ず意味があって、伏線はきれいに回収される世界。

でも、現実ってもっと「点」なのではないかと思うし、それで良いのではないかとも思うのです。無理やり「点」をつなごうとしなくても良いのではないかと。

頑張っても1番になれないことも多いし、つらい経験を活かしても成功するとは限りません。物事にすべて理由があるわけではなくて、なんとなく選んだ仕事で成功する人もいるだろうし、流されるままに生きてきたら何とかなったという人もいるはずです。昨日と今日で人生観が変わる人だっているでしょう。

 

そんなことを考えるたび、過度に物語に飲まれないこと、意味や理由を求めすぎないことも大事だな、と自戒します。

私たちは立派な物語があるから尊いというわけではないと思うのです。本来はそういうの何も関係なく、生きているだけで尊い存在のはずで。

 

物語に想いを馳せつつ、物語に依存しない

人に優しくなるために相手の物語を妄想し、人に優しくなるために物語に飲まれない。

すごく矛盾した話だけど、私個人が思っているのはそういうことです。場面に応じて、優しくなれるほうを都合良く選んでいければいいのかなと思うのです。

見えないところに、淡々と積み重ねた日常の尊さや、まったく筋の通らない出来事や言動、隠れて見えない苦労や絶望、小さな喜び、いろいろな語られない要素がたくさんこぼれ落ちているかもしれなくて、それを想像することで人に優しくなれるなら私はそうする。

でも本当は、ただ目の前の相手を受け入れる以外に、いったい何が必要なのだろうか?とも思うのです。私自身がそれだけを単純にできるほど聖母マリアではないからこそ、物語の力を借りる場面が出てくるのかもしれませんが。

 

毎度のようにとりとめがなくなってしまったけど、

1人1人の人間を丁寧に見つめる目を失わずに持っていたい、それだけです。さすがに全員を見つめるには、この世界には人間が多すぎるけど、できる限り。

 

 

※この記事に関連して。この本は以前も紹介しましたが、とても参考になって面白かったです。

人はなぜ物語を求めるのか(千野 帽子)

※あとこれもすごく好きです。埋もれている物語っていっぱいあるんですよね。

断片的なものの社会学(岸政彦)