明日、私はどっぷり落ち込むかもしれなくて、その落ち込んだ私を救うのは、今日の私かもしれない。

しばらく、こんなことを考えていた。

【真夜中のひとりごと】本当に、本当に、本当に悲しくて落ち込んで傷ついて、この世に自分しかいないような気持ちになったときに、私はいったいどうやって現実に戻ってきていたのだろう?ということをちょっと考えていて、ブログ記事を書きかけているところ…

及川 智恵さんの投稿 2017年12月13日水曜日

 

SNSを開けば、「自分を好きになろう」「人に助けを求めよう」「ひとりじゃないよ」「今辛くても必ず光が見えてくから」などなど、きれいな言葉がたくさん並んでいる。そして、たしかにどれも、あまりに正しい。

しかし、悲しすぎて立ち直れる気がしないときに、こういう言葉は意味を成さない。それどころか、引き裂かれて傷だらけの心に塩を塗り込むようなものだ。

 

自分を好きになどなれるわけがない。誰も助けてくれるわけがない。誰もそばにいてくれない。光なんてどこにもない。そうとしか思えないからこそ、どっぷり落ち込んでいるんじゃないか。

きれいごとに付き合えるのは幸せな証拠だわ。「ひとりじゃない」とか言ったって、適当に「大丈夫だよ~」とか言って終わる奴がほとんどだ。

 

とにかく何も信じられなくなるのだ、本当につらいときというのは。自分も他人も明るい未来も、何もかもすべて。

真っ暗な穴の中に突き落とされて閉じ込められて、このまま酸素がなくなって死んでいくしかないみたいな、そんな絶望的な気持ちになるのだ。

 

そういうレベルの落ち込みを、私はいったい何度経験しただろう。数えたことはないけれど、10~20代の頃は相当頻繁に繰り返していたし、30代に入ってからも両手両足の指の数ぐらいはあるはずだ。

それでも今、私は普通に生きている。それなりに自分を認めつつ、周りに誰かがいることも認識しつつ、未来に光があるものだと何とか信じ込みながら。

 

でも、あまりにぼろぼろで生きていることが苦痛すぎて耐えがたかった時期が、たしかに何度もあったわけで、きっとそれは私だけではないだろうと思う。

何一つとして信じられるものがなくなってしまったとき、私はどうやって生き延び、どうやって立ち直り、どうやって今にたどりついたのだろう?

 

 

本気で落ち込むと、私は布団から出られなくなる。誰とも会いたくないし、何もしたくなくなる。ひたすら布団をかぶって泣き、疲れたら寝て、何もしていない自分に苛立ち、悲しみ、また泣く。3日ぐらい、ひたすらそれを繰り返す。

ぼろぼろで外にも出られないし、活動範囲は自室の中のごく狭いところになる。一応トイレやキッチンには行くけど、だいたいの行動はベッドから手の届く範囲内だ。

 

そんな状況で、私を助けてくれたもの。

 

本。子どもの頃から、本があればひとりぼっちでも平気だったし、小学校の図書室の本は読み尽くしたし、10代後半~20代前半は、文庫本がお友達だった。

どこか歪んだ登場人物がいる本が好きで、ちょっとダメな主人公の話を読んでは「私も生きていていいんだな」と勇気づけられたりしていた。

 

音楽。それほどたくさんのアーティストや楽曲を知っていたわけではないけれど、悲しい歌詞に同調しては心を揺さぶられて泣き、悲しみの中から立ち上がっていく歌詞を支えに少しずつ元気になっていった。

音楽があると、どんなに美しい言葉が使われていても押しつけがましさが薄まって、ちょうど良かった。

 

そう、本も音楽も、ベッドの中にいながらにして楽しめるものたちだ。既に購入して手元にありさえすれば。

 

心が滅んでいると、新たな本や音楽を探すエネルギーはない。

ネットショッピングができる時代だし、電子書籍や音楽配信などは配達するまで待つ必要さえないのだが、魑魅魍魎のインターネットの世界は、傷だらけの心には負担が大きすぎる。

だから、手元にあるお気に入りに繰り返し触れることしかできない。今の気分にはコレが合うはず、と記憶を頼りに引っ張り出してくるしかないのだ。

 

そうなると、いざというときに自分を救ってくれるのは、過去の自分が選んでおいた「お気に入り」、ということになる。

 

 

私は「日常をどう生きるか」ということにとても興味がある。「何でもない日常の中の面白さ」にとても興味がある。それはもちろん、「何でもない日常の中にも面白いことがゴロゴロ転がっている」と本当に思っているからだ。

でも、生きるのがつらくなって引きこもるしかなくなったときって、本来面白いことが落ちているはずの日常が、完全にモノクロにしか見えなくなってしまうのだ。

「道端に咲いている花の美しさに気づく」みたいな話があるけど、心が荒んでいる時には、「道端の花は所詮道端の花」だし、それ以前に、花の存在なんて目に入ってこないのだ。

 

色がない。何もない。もはや、息をすることさえ苦しい。面白いものなど何も見当たらない。

だけど、ベッドの中から、少し前の自分が積んでおいてくれた「お気に入り」に手を伸ばすことができたら?

 

少なくとも私は、その「お気に入り」たちに救われて何とか生きることができた。モノクロの世界がほんのり色づいて、ちょっと元気になってコンビニに買い物に出ていけるようになったりして、何とかいつもの自分を取り戻してきた。

ベッドの中から届く範囲に、光の手掛かりはちゃんとあった。頑張らなくても届く範囲内に、手掛かりはちゃんと置いてあった。

 

そして、その手掛かりを置いたのは、他の誰でもない、過去の自分なのだ。

これだけでも、本来なら自分を十分褒めてあげていい話のような気がする。

 

泥沼にはまったときこそ、本当に本当に地べたの日常しか頼りにできない。だから、その地べたの日常をどれだけ豊かにしておけるかによって、心の強さというか、立ち直る弾力性というか、そういうものが大きく変わるような気がする。

明日どっぷり落ち込んで涙が止まらなくなるかもしれない自分のことを、今日の自分が救ってあげられるかもしれない。今日の自分が、できるだけたくさんの「お気に入り」を、ベッドから手の届く範囲に用意しておけばいいのだから。

 

たしかに日常の中にも面白さや幸せは隠れていると思うのだけど、それを見つけるには、「見つけよう」という意志の力や、意志の力を支える心身の体力が必要になる。

心身の体力って、既に幸せが十分量ないといけなかったりする。そうなると、「日常に幸せを見出せるのはある程度幸せな人」ということになってしまう。

だから、それなりにエネルギーのあるときに、自分なりに「日常の中の幸せ」を見つけておきたい。「お気に入り」を手元に揃えておきたい。ベッドから1メートル以内のところにストックしておけたら、それだけで日常はだいぶ豊かだ。

 

本を書いてくれた人たちや、音楽を作ってくれた人たちに、たくさん感謝したいと思う。良い作品を生み出してくれる人たちがいたからこそ、私は何度も何度も立ち直れた。

でもそれと同時に、本や音楽を選んで購入していた過去の自分の選択も褒め称えたい。どんなに良い作品も、手元になければベッドから手を伸ばせなかった。買ってあったおかげで、私は生き延びることができた。

 

昨日までの自分よ、本当にありがとう。あなたはとてもよく頑張ってきました。

 

そして、明日以降の自分のために、今日も「幸せ」や「お気に入り」を1つ1つ家の中に積み上げていこうと思う。

自分を開いてくれるものにたくさん出会いたい。自分の心が動くものにたくさん出会いたい。そして、本気で心が動くもの、自分の感性に共鳴するものを、手放さずにいたい。

ひどく落ち込むことは減ったし、そこまで残酷なことが起きないことを祈るばかりだけど、幸せやお気に入りの貯金なら、落ち込もうが落ち込まなかろうが、しておいたほうが幸せに決まっているのだから。

 

 

自分の生み出す言葉やアートも、どこかで誰かの光になれたらいいなあと思いつつ。

 

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