それなりに年を重ねたせいか、最近はあまりしなくなったことなのだけど、20代の頃は、苦しいことや悲しいことがあってひどく落ち込んだときは、だいたい3日間ぐらいひたすら泣き続けることにしていた。
「ことにしていた」というのは、最初は意図して泣き続けていたわけじゃないのだけど、徐々に「3日泣けば大丈夫」みたいな感覚が芽生えてきたもので、そうすることにしていた、ということだ。
なんというか、身も蓋もなくというか、この世の果てまでというか、落ち込めるところまで徹底的に落ち込んでやれ、という感じのことをするわけ。
泣き場所はだいたいベッドの中。落ち込みたいときにアクティブな場所は似合わないので、じっと休むための場所はどんよりするのに最適。プライベートで邪魔されない感じもぴったりだ。
ついでに言うと、布団をかぶっていれば大声も出し放題だし、そのままうとうと眠ってしまってもいいし、うだうだと考え事をした挙句にまた泣き直すのもいい。世の中が世知辛くとも、布団と枕とシーツはいつも私にやさしい。
そんな感じで、とにかくひたすら泣く。涙が止まってもひたすらぼーっとして、また泣いて、またぼーっとして…というようなことを3日ぐらい繰り返す。
そのうち、3日という期間は短いようでいて、泣こうと思って泣き続けるにはけっこう長いことに気づき始める。
そして泣き切ったときに感じるのは、「他にもやることあるな」「泣き続けるのも疲れる」「さすがにブサイクすぎてやばい」「はらへった」「飽きた」とかまあそんなところだ。
そう、3日間狂ったように泣くと、放っておいても正気に戻るんですよ、なぜか。
日頃忘れがちだけど、私たちは「生きる」ということに対してけっこうなリソースを割いている。ただ生きているだけでも、それなりのカロリー消費が発生しているし、カラダのしくみや本能は悲しくても辛くても変わらない。
泣いているだけでもぼーっとしているだけでも十分疲れるし、トイレにも行きたくなるし、お腹も空くし喉も乾くし、そうなれば料理をするかコンビニに買いに行くかするだろうし、パンツが足りなくなったら洗濯もしないといけない。
だいたい3日間ぶっ通しで泣けるほど暇な人ばかりじゃないだろうけど、たとえ暇だとしても、意外といろいろなことに労力を使っていることに気づく。
何が言いたいかというと、
私たちには、純粋に生物として生命を維持するという仕事がある。
悩むことだけにすべてのリソースを使えるわけじゃない。意図せず習慣的にやっていること、カラダが勝手にやってくれていることがたくさんある。その次の段階として、生活を維持するという仕事も。
徹底的に泣き続けることで、その「生物としてやるべきこと」が逆に強調されるというか、主張してくるというか、無視できない存在感を発揮してくるのだ。
そして、そのクローズアップされてしまった「生物としてやるべきこと」をやるうちに、なんだかどこか落ち着いてくるのです、不思議なことに。
まあ、悩みレベルがあまりに高いとちょっと話が違ってくるだろうけど(自ら命を絶つ人だっているわけだから)、自分ひとりで抱えられる程度の「ひどい落ち込み」レベルではそうじゃないかと思う。経験上。
ずいぶん昔、失恋か何かで打ちのめされていた友人に、私は「呼吸してるだけで十分エライよ」と言ったことがあるらしい。
私は言ったことすら忘れていたのだけど、当人にはけっこうなインパクトがあったらしくて、しばらく経ってからわざわざ報告された。あの言葉はすごかった、と。
呼吸だってエネルギー使うんだもんね。よくわかってたじゃないか、当時の私よ。
しんどいときほど、とりあえずしっかり息を吐いて息を吸う。呼吸が浅いとカラダも疲れるし、頭も回らないから、何度でも深呼吸する。まあ、声出して泣くのもけっこう息するよな、そういえば。
ごはんをしっかり食べる。何も喉を通らない日もあるだろうけど、とりあえず水だけでも飲んでおく。ほら、泣いたら水分出ていっちゃうし。塩分も減るから、塩も舐めといたほうがいいか。しょっぱいって感じられればそれでいい。
あとはちゃんと寝る。眠れないぐらい悩んでしまうこともあるけど、仕事中とかに眠くなればうとうとできるだろうし(おい)、さんざん泣きわめいておけば、疲れていつの間にか寝落ちすることでしょう。
絶対にそうだ、なんてとても言いきれない。
でも、自分の経験の限りでは、生物として生きることをとりあえずしっかりやっておけばいつか何とかなるんじゃないか、と思っている。
※元気が戻ってきたら、これやってみてもいいかも。まずは自分の好きなことリストからどうぞ。